ブラジル飯・・豊かさの感覚とその方向性

 食文化(料理)はその国のキャラクター(国民性)を端的に示す。特に日常、人々が食べているもの。その意味でここでは[ブラジルめし]と言うことにする。料理を眼前にしたときに受けるインパクト、それはある意味で異文化との最初のコミュニケーションだといえる。

まず[ブラジルめし]の特徴は、その量の多さにある。昼間のランチタイムに、日本での定食に相当するもので、”PRATO DO DIA”(今日の定食)というものがある。これは”PRATO FEIT”(通称”P・F”)ともいって、街中いたるところでその看板を見つけることができる。メニューのバリエーションは5種類くらいしかなくて少ない。PlCCADlNHO(牛のステーキ)、FLANGO MOLHO(鶏のシチュー)、CALABLEZA(ソーセージ)etc.味付けはいたってシンプル。塩、胡淑くらい。これがメイン・ディッシュで大きな銀皿にのってくる。それにフェイジョンといわれる、スープ状にして豆を煮たもの(砂糖を抜いた小豆のようなもの)が同じく銀皿に一つ。それからサラダ(これはポテトサラダか野菜サラダのどちらかを選べる)がまた同じく銀皿に一つ。それから白飯が同じく銀皿に一つ。計4皿、これが一般的、大体、白飯にフェイジョンをぶっかけて(この表現がぴったり!)、それにファロッファというトッピングをかけて混ぜて食べる。人によってはメインの肉、サラダも 一緒にのせて食べる、それぞれの皿が異常にボリュームがあるので、2回位に分けないと皿にのらない。これ、日本でいう何杯飯とかいうヤツ。ガラナ、コカコーラなどの炭酸飲料を飲みながら、30分くらいかけてゆっくり食べる。(オカシイことにみんな左手にナイフ、右手にフォークを持って食べる!)それにしても何という食欲!

オレなんか着いて一週間くらいは半分位しか食えなかった。ガラナを飲んだだけで腹―杯。よく食えるなぁと思っていた。それに肉の量が半端ではない。でもあとで聞いたところでは、ブラジル人でも残すことが当たり前らしい。肉の消費量、世界一。残ったものは、日本のようにとっておいて翌朝食べるみたいなことをしないでバンバン捨てる。これじゃあ、ブラジルにサッカー勝てるわきゃない。(関係ないっか!)まぁ、その食べるということのパワーに圧倒されたわけです。値段的にもこの満足感にして平均¥300くらい。嬉しいかぎり。これだけ語ってすでに食傷ぎみだけど、3ケ月もいると食べられるようになってしまうんだ、これが。

そこで思うのは、あんな経済状況なのに、店は提供するものに対して全然ケチらないということ、ブラジルでは食材(特に肉)だけは安く手に入るということもあるけど、食事に対する感覚、言ってみれば[豊かさ]に対する感覚の違いを感じた。日本では、一杯の白飯に情けないばがりの味噌汁、お新香それになけなし?のおかずがついて、こんなんで¥700?みたいなのがよくあるけど、ブラジルではそんな失望感・貧弱さ・セコさを味わうことはない。それはブラジル人の感覚では許されないことなのだ。これが[豊かさ]の原点だから。

何か食べた後、[満足感]があるというのはスゴク大切な感覚。人生で一番手っ取り早く[満足感]を得られる方法だと思うから。その意味で日本は全然豊かではない。それが得られないとそれを埋めるためにまた何かを口にしようとする。今はコンビニなんかがあるからすぐ寄ってしまう。割りにあわないものを食わされたあげく、また金を使わされる。何かそういう社会システムにはめられてるって感じがする。そういう人間の根本的な欲求に対してズバッと答えないで逸らす方向にいっている。「21世紀に向けて豊かさとは?」みたいなビッグワードで語られる必要はない。満足感はもっとアットホームなところに存在する。根本にある要求を実現していかないと、その代替を探すようになってしまう。要求のすり代え。それがマテリアル信仰だったり、お金だったりするわけだ。もっとも、お金で買える満足感もあるが高が知れている。お金があったって人生の楽しみ方を知らなけれはしょうがない。人間は生きていく中で究極大事なのは[いい感じ・感覚・満足感]を体に染み込ませていくことだと思う。そしてそれを実際にやっていかなければいけない。そういう観点に立つと自分の心が本来あるべき方向に収斂していくような気がする。

最後にもう一つ、ブラジルの食文化を彩るものとして、毎週フェイジョアーダの日(水・土曜)というのがある。これはフェイジョンに牛・豚の臓物を入れて煮込むもので、とろけるようにウマイ。普段より安く提供される。日本にもニラレバの日とか生姜焼きの日とかあればなぁ。ともあれ、ブラジルの食生活に対する感覚・方向性はある意味で正常?なのであります。

↑ブラジルの公衆電話

 

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